「ヤングケアラー」が、社会的に注目を浴びている。メディアでその言葉を目にする機会が増え、関係する勉強会やシンポジウムが各地で開かれ、行政による実態調査が進められている。2023年4月に創設される「こども家庭庁」でも、ヤングケアラーへの支援策が盛り込まれている(内閣官房 2021)。
日本で、ヤングケアラー分野の嚆矢となった書籍を刊行し、先駆的な研究を行っている澁谷(2018:24頁)によれば、ヤングケアラーとは、「家族にケアを要する人がいる場合に、大人が担うようなケア責任を引き受け、家事や家族の世話、介護、感情面のサポートなどを行っている、18歳未満の子ども」と定義される。「18歳未満」という年齢の線引きに厳格な意味があるわけではなく、子ども期にそうした家族のケアやサポートを行っているケースを、本稿では、ヤングケアラーとして扱うこととする。
近年のヤングケアラーをめぐる支援の動きや、研究の前進には、目覚ましいものがある。その背景に、ヤングケアラー当事者、研究者、行政関係者など、多くの人々による、たゆまぬ努力や、現状を少しでも良くしたいという思いがあることを忘れてはならないだろう。
その上で、ヤングケアラーについては、その概念の妥当性から、その概念に根ざした問い立ての適切性、さらには支援のあり方まで、様々な議論や批判がある。
私は、ヤングケアラーと呼称することは、慎重でなければならないと考えている。ヤングケアラーであることは、周りの多くの子どもとは違う、異質なものとして見做される恐れを含む。同質性が要求される日本社会において、周囲と異なる存在と見られることは、それ自体が、仲間外れやいじめのリスクに直結する。周りに敏感な思春期の子どもにとっては、そのリスクは一段と脅威なものとなるだろう。社会的にも、あの子はヤングケアラーというラベルを貼ることは、ヤングケアラーとそうでない子どもを区別・分断し、当事者に強いスティグマ(汚名や恥の負の烙印)をもたらす危険がある。そのように、当事者に不利に働きかねない、ヤングケアラーという呼称を用いることは、慎重でなければならないだろう。
さらに、ヤングケアラーに焦点化することは、ヤングケアラーの背後にある、後述するような、日本社会の家族ケアのあり方や社会構造といった、問題の本質や根源を見えにくくする恐れもある。
それでは、ヤングケアラーという概念、あるいは、その問題提起自体が、失当なのだろうか。また、問題解決のための有効な手立てはないのか。
本稿では、①ヤングケアラーに着目する「危うさ」、②ヤングケアラーの議論が日本社会にもたらしうる「契機」という2段階にわけて、議論を進めていくことにする。
1.ヤングケアラーに着目する「危うさ」
私は、生活困窮世帯の子どもの学習支援をフィールドとした調査研究を行っているが、ヤングケアラーという言葉が人口に膾炙しはじめた頃、ある現場のスタッフから、「このままだとヤングケアラーになってしまう子どもがいるので、その子を支援してください」という趣旨のことを言われたことがあった。必要な支援が届いていない子どもがいるならば、支援が差し出されるべきであり、そのスタッフの言葉も、子どものことを案じるが故に発せられたものに違いない。他方で、私は、その言葉に違和感を覚えた。ヤングケアラーにならないように子どもを支援するというロジックが、果たして適切なのだろうか、と。
そもそも、ヤングケアラーの問題とは何なのだろうか。先行研究が指摘していることを簡潔にまとめると、何らかの事情によって親が家庭でのケアを果たせないときに、子どもが親の代わりにケアを過度に遂行し、時間的・体力的にケアに多くを割き、その結果として、子どもの教育機会、社会参画、将来の選択肢の幅などの面で制約を受け、不利益を被っていることなどがあげられる。そのことは、子どもの利益や権利の観点から、改善されるべきであるということに、今日では、異論の余地はないだろう。
だが、そもそも、親が家庭でのケアを果たせない時に、同じく家族である子どもがケアを代行せざるを得ないというあり方に、根源的な問題があることを忘れてはならない。換言すれば、家庭のみがケア負担を担うというあり方や、家族や世帯への福祉サービスの不十分さこそが、まず改善される必要があろうといえる。
この点、上野(2022)は、「日本では英国で問題になったヤングケアラー論が無批判的に導入されている」(188頁)として、英国での議論を参照に、ヤングケアラー概念の問題点として2点を述べている(189-196頁)が、1点目の問題点は、かかる現状に関するものである。すなわち、福祉財源や福祉サービスが不十分な一方、福祉の家族ケアへの依存度が大きくなってしまっている日本社会において、福祉財源の拡充や親への福祉サービスの充実ではなく、ヤングケアラー支援策のように子どもへの焦点づけが優先されてしまっており、「順番が逆」(192頁)というものである。かかる指摘は、日本における家族ケアや、福祉制度などのあり方と密接に関連するため、それらの特性を概観しよう。
日本では、家族主義といわれる福祉レジームのもと、育児や介護といったケアは基本的に家族の責任とみなされ、他方、公的な福祉制度は家族のケアが及ばない場合に、補足的・応急的に機能するものとされてきた。こうした指摘は、特に社会学や福祉社会学において多くの研究があるが、例えば、庄司(2013)は、日本における家族のケアの特長として、「無償性」、「無限性」、「自明性」、「(問題を潜在化させる)不可視性」を指摘する。 庄司によれば、家族ケアは、ケアの担い手と家族関係にあるという地位によって無償で提供されること(「無償性」)、個別の必要に応じて臨機応変で隙間なく対応するという無限定な側面を持つこと(「無限性」)」、また、そのことが当然であるという「自明性」、さらに、問題の所在を潜在化させる(「不可視性」)という特性があり、「ケア関係の困難、あるいはケアの担い手が抱える困難を覆い隠してきた」(47頁)といわれる。これらは、詰まるところ、日本では、家族が、無限定な無償のケアを家庭外から見えないかたちで担うことが自明なものであることを示している。
ヤングケアラーについても、まさにこうした日本社会における家族ケアのあり方を体現していると言える。そして、さらに、家族によるケア責任を基本として、家族ケアが及ばない場合にのみ、必要部分のみに、補足的・応急的に福祉サービスが現れるというあり方は、ヤングケアラー支援のロジックとも、奇妙なほど符合するものである。なぜなら、先に紹介したような、ヤングケアラーにならないように子どもを支援するというロジックは、家族によるケア責任を不動の所与の前提として、親による家族ケアが及ばない場合や、親の代行として子どもがケアを担わざるを得ない段になってようやく、対象を限定した上で、補足的・応急的な支援として発現し得るものだからである。そのような支援は、家族に偏っているケア責任の見直しを促すことがなく、むしろ、強化する方向で働く恐れさえあるのではないか。
この点、1990年代後半以降の日本では、介護などの「ケアの社会化」や、子どもを社会全体で支えようというように「子育ての社会化」を進める政策が展開されている。しかし、ケアについての家族責任や家族規範は、法律上あるいは事実上、強固に維持され、現在でもケアの多くが家族に委ねられていると指摘されている(下夷 2015)。井口(2010:171頁)も、ケアの社会化がもたらしたものとして、「家族のケア役割や責任意識が残ったまま分担していかなくてはならないという事態である」と指摘する。また、松木(2013)によると、子育ての社会化が進んでいるとされても、家族のケアは家族が第一義的に担うという子育て私事論や家族責任の強調が根強く、子育て支援は、そうした家族規範や子育て私事論の存在を前提としながら成り立っている。 社会化の理念に従えば、親や世帯の支援の充実がまず優先されるべきであり、子どもであるヤングケアラーの支援を行うことは、上野が述べるように「順番が逆」といえる。
ここまでみてきたように、ケアの家族責任・家族規範が依然として強いなか、ヤングケアラーに焦点化し、その背後の家族のケア責任や、不十分なケアの社会化のあり方を不問とするヤングケアラー支援は、大きな問題を含んでいると言わざるを得ない。
続く、ヤングケアラーにならないように子どもを支援するというロジックの問題は、親へのスティグマを生み、そのことが、子どもと親との情緒的なつながりや、親子関係をも損なう恐れがあることにある。ヤングケアラーであると公に認められることは、その家庭で親が担うべきケアを担うことができない、と裁定されることに等しい。そのことは、親としてのアイデンティティや自己有能感を棄損しかねない。
生活困窮世帯の親を対象に行った調査(松村 2020)によれば、子どもを十分にケアしたり、教育・学習の機会を提供することが難しいなかでも、親自身は、そうした厳しい状況に陥っていることに自分の力不足や罪悪感を覚え、子どもに後ろめたさを感じつつ、やれるだけのことをして、なんとか親としてのアイデンティティや自己有能感を維持しようとしているケースが見られた。家庭でケアを担えなくなった元々の原因である、病気や障害等の要因に加えて、我が子のことを案じ、うまくいかない子育てについて強いストレスや葛藤を抱えているケースもみられた。そうしたなか、子どもがヤングケアラーであると認定されることは、親のアイデンティティや自己有能感の棄損に追い打ちをかけかねないものである。それは、親から子どもへのケアをさらに悪い状態にもしかねない。
さらに、担うべきケアを担えない、という親への社会的なレッテルは、子どもも感じとるところがあるだろう。周りの視線に敏感な思春期の子どもなら、なおさらだ。親に向けられるスティグマを伴う目線や、親へのバッシングは、子どもと親との情緒的なつながりや、かろうじて維持されている親子関係をも揺るがしかねないのではないか。子どもとしては、ヤングケアラーであるということを認めることが、親の立場を危うくすることは察知できるところがあるだろう。そのために、ヤングケアラー支援を拒否することもあり得るだろう。子どもは、どんな状況であれ、親を庇おうとするところがある。親のケアの客観的な役割遂行の程度とは別に、心理的・情緒的なつながり、愛情があり得るからだ。家庭が崩壊しかけていても、気持ちの結びつきが、家族を維持している場合もある。
すなわち、ヤングケアラー支援のあり方を考える際には、親の客観的なケア役割とは別の次元における、心理的・情緒的な家族としての結びつきの次元も考慮する必要があろう。
さらに、貧困世帯の子どもにおいては、一般世帯の子どもと比べて、家庭で十分なケアを受けることができないことに加えて、学校や部活動参加、友人関係から排除されやすい傾向がある分、家庭への準拠を強め、閉じられた家庭での家事負担の役割にアイデンティティの源泉を求めることも指摘されている(林 2016)。こうした点にも、十分に留意するべきであろう。
ヤングケアラーと認定し、ヤングケアラー支援の名のもとに、家族の状況に変化を与えることは、上記の点に留意しながら、慎重でなければならないだろう。
なお、先述の上野(2022)も、ヤングケアラー概念への批判の2点目として、大人が通常、家庭内で担うはずのタスクを大人が遂行できず、子どもが代わりに遂行することを意味するヤングケアラー概念は、親が適切に仕事や役割を遂行できないことをも含意するため、親が「『不十分な親』とみなされる」(196頁)と指摘する。
ここまで述べてきたように、日本社会において、ヤングケアラーに着目することは、多くの「危うさ」を伴っていることに留意する必要があるだろう。
2.ヤングケアラーの議論が日本社会にもたらしうる「契機」
ここまで、ヤングケアラーの議論について、その「危うさ」を述べてきたが、他方で、日本社会に「契機」をもたらす可能性があるとも私は感じている。
ヤングケアラーと同じように、日本社会のケアや家族のあり方と関係しつつ、社会的に急激に注目を浴びた先例が思い出される。「子どもの貧困」をめぐる議論である。
2000年代半ば以降、「子どもの貧困」は、社会課題として認識されていった。
子どもの貧困をめぐる議論と、ヤングケアラーをめぐる議論に、似ているところがあると感じるのは、おそらく私だけではないのではないだろうか。
まず、対象である子どもの特徴に類似点がある。ヤングケアラーの子どもの特徴としては、澁谷(2018)などが指摘するように、学校の友人や先生など家族以外の他者に状況を話しづらく、相談相手がいないことが多い。また、家庭内部の事情であり、外からは容易に知り得ないため、気づかれにくい。その結果、ヤングケアラーの子どもは悩みや葛藤があっても、自分ひとりで抱え込みやすい。
貧困世帯の子どもの特徴も、ほぼ同じことが当てはまる。さらに、貧困世帯で、かつ、ヤングケアラーというケースにおいては、状況は一層困難である一方、子どもは目の前の現実により強く絡めとられる傾向がある。著者が行った調査(松村 2020)でも、生活保護受給世帯で、かつ、ヤングケアラーでもある子どもたちは、家庭内の日常的なケアを無自覚のまま背負い込む一方、学習や進学などの権利、自分のやりたいことが制約されても、それすら仕方ないと諦め、誰にも相談することなく、状況を抱え込んでいた。ここまで述べてきたように、まず、子どもの特徴には類似性がある。
続いて、「子どもの貧困」、「ヤングケアラー」という問題提起のあり方にも類似性がある。子どもの貧困は、親の貧困、あるいは、世帯の貧困の一部に、他ならない。その背景には、格差など日本社会の構造的な問題がある。しかし、親または世帯の貧困に着目するだけでは見えづらい、子どもを中心に見たときに浮かび上がる特有の問題、例えば、子どもの健全な育ち、学び、将来の選択といった問題に焦点化する上では、「子どもの貧困」という問い立ては、有効になり得るだろう。
「ヤングケアラー」という問題提起も、それに近い。先述のように、家族に偏った日本社会におけるケアのあり方や、福祉財源・福祉サービスの不十分さといった社会構造の問題が根源にありながら、そこではなく、ヤングケアラーという子どもを中心に見たときに浮上する、子どもの学びや将来の選択といった問題に焦点化して論じる傾向がある。
両者に共通しているのは、焦点化の範囲を限定することで、問題点が一層クリアになるとともに、子どもという成長途上にあり、かつ、社会が庇護しなければならない存在への関心、共感、支援の意識を呼び起こすものであるということである。この点にも、両者には、類似性がある。
では、社会意識の喚起につながった結果、「子どもの貧困」は、政策や支援の取組としてみたとき、どのような帰結を辿っているのか。
様々な関係者の働きや世論の高まりによって、2013 年に「子どもの貧困対策の推進に関する法律」が成立、2014 年には「子供の貧困対策に関する大綱について」が閣議決定され、取組が本格化している。子どもの学習支援や子ども食堂など、様々な支援の取組が進められている。
こうした状況は、「子どもの貧困」が、いわば社会問題として顕在化する以前と比べれば、貧困層の子どもにとって、様々な支援メニューがあり得るということで望ましい状況と一定の評価をすることもできるだろう。
他方で、日本の子どもの貧困率についてであるが、2018年時点の子どもの貧困率は13、5%であり、先進国のなかでも依然として高い水準にある(厚生労働省 2019)。取組の成果が出ているとはなかなか言い難い。何より、「子どもの貧困」の背後にある親や世帯の貧困、あるいは、格差などの社会構造的な問題が、改善したと感じる人は、果たしてどれほどいるだろうか。
続いて、ヤングケアラーの支援策に目を転じると、どうであろうか。支援の前提となる実態調査について、一部の自治体に先行されながら、国は民間調査と連携して、2020年度に中学2年生、全日制高校2年生を対象とした全国調査を初めて実施し、2021年度には小学6年生、大学3年生を対象とする実態調査を行い、2022年4月に結果を公表した(日本総研 2022)。また、厚生労働省(2022)のホームページにヤングケアラーの特設サイトが設けられ、啓発活動が進められているとともに、「ヤングケアラー支援体制強化事業(令和4年度予算)」が盛り込まれているが、全体として、いまだ取組が、緒に就いたばかりの状況である。
現時点の取組を見る限り、ヤングケアラーに焦点化したものばかりで、その背後にある日本社会における家族と社会によるケアの見直しを喚起する取組や議論が抜けていることが、大きな気がかかりである。だが、ヤングケアラーが社会的に注目を浴び、ある種の「追い風」が吹いていることは、間違いない。だが、この状態が長く続くとは限らない。換言すれば、今が、正念場であるといえるだろう。
「ヤングケアラー」と「子どもの貧困」の両者に共通しているのは、ケアや貧困といった、社会構造に起因する問題の解決を、家族に大きく委ねてしまっていることにある。「子どもの貧困」は、同じように社会的に注目を浴び、先述のように支援の拡大という点では、一定の前進につながったが、その背後にある、より大きな問題の改善には至らなかった。今起きている「ヤングケアラー」への注目は、今度こそ、日本社会の問題を見つめ、議論し、見直す、「契機」ともいえる。
また、このムーブメントを、一過性のブームで終わらせず、ヤングケアラーをめぐる議論を出発点として、私たちの社会のあり方を論じることが、迂遠そうで、最も有効な、ヤングケアラーの支援にもなるのではないだろうか。
【文献】
林 明子(2016)『生活保護世帯の子どものライフストーリー:貧困の世代的再生産』勁草書房.
井口高志(2010)「支援・ケアの社会学と家族研究:ケアの『社会学』をめぐる研究を中心に」『家族社会学研究』22(2),165-176.
厚生労働省(2019)「2019年 国民生活基礎調査の概況」(https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa19/index.html)
厚生労働省(2022)「ヤングケアラーについて」(https://www.mhlw.go.jp/stf/young-carer.html)
松木洋人(2013)「子育て支援の社会学:社会化のジレンマと家族の変容」新泉社.
松村智史(2020)「子どもの貧困対策としての学習支援によるケアとレジリエンス:理論・政策・実証分析から」明石書店.
日本総研(2022)『ヤングケアラーの実態に関する調査研究』(https://www.jri.co.jp/page.jsp?id=102439)
澁谷智子(2018)「ヤングケアラー:介護を担う子ども・若者の現実」中公新書.
下夷美幸(2015)「ケア政策における家族の位置」『家族社会学研究』27(1),49-60.
庄司洋子(2013)「自立とケアの社会学」庄司洋子・菅沼隆・河東田博・河野哲也編『自立と福祉:制度・臨床への学際的アプローチ』現代書館,36-59.
上野加代子(2022)『虐待リスク:構築される子育て標準家族』生活書院.
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