西川一三の『秘境西域八年の潜行』は、戦中に密偵として西域に潜入し、終戦後もインド、ヒマラヤを渡り歩いた稀有な記録である。あの本を読んだ時の興奮は忘れられない。それは北極のカヤック行で浮氷に閉じこめられ長期停滞を強いられたテントの中でのことだった。文庫3冊1800頁にもおよぶ大作は、こんな暇な時でなければ読めるものではないが、とにかく旅の雄大さ、破天荒さにくわえ、それを臨場感あふれる物語に仕立てあげる筆力にも舌を巻いた。世界的に見ても旅行記の極北だろう。
その旅を沢木耕太郎が今になって書き直す。となると、当然ながらその意味が問われることになる。西川氏の本は木だけを書いているところがあるので森を書きたい、と沢木氏本人は記すが、ではその森とは何なのかということだ。
たしかに本書は西川氏の本とは異なる趣の作品となっている。西川氏本人への取材や日記、その他関連資料を溶鉱炉のなかにぶち込み、とりだされた合金を芸術家が鑿(のみ)を打ちこむように丹念に削りこんで仕上がった作品。私の読後感はこのようなものだった。沢木氏の筆致がいつにもまして硬質で引き締まっているのも、この印象を強める。
では造形された作品において沢木氏の主題はどこにあるのだろう。それは西川氏の人間としての覚醒ではないかと思う。
西川氏の行動は国家の密偵として出発したが、その後は明らかに旅そのものが目的となっている。そのあたりを西川氏本人はうまく表現しえていなかったのだが、沢木氏はこの変化に焦点を当て、新しい土地への衝動、困難を乗り越える喜びを基軸に練り直している。そうすることで旅と人間が切り離せないものであることを表現しているのだ。
任務という〈理由〉を削ぎ落したうえで最後に残るのは〈行かないではいられない〉という個人の心情だ。そういう旅こそ純粋なのであり、旅を通して西川氏は国家という後ろ盾を離れ、ひとりの人間として強くなってゆく。これこそ若い頃に『深夜特急』の旅を実践した沢木氏が、もう一度書かなければならないテーマだったのではないか。
私は改めて西川氏の旅に畏敬と羨望をおぼえた。道のない砂漠や峰々を越え、川を渡り、機械や石油やテクノロジーに侵されていない無垢で素朴な大地と人間を何年もかけて訪ねる旅。そしてそれが可能だった時代。そこにはどのような風景が広がっていたのか。悠久の時を越えて変わらないものはあるはずだ。そして旅とはその何かを追い求めるものである。同じ経験があったからこそ沢木氏は今、この作品を書かなければならなかったのだろう。
内なる一人称の目による西川氏本人の著作と、外から俯瞰的に見た三人称による沢木氏の作品。この双方からの目によって西川一三の旅がついに完成した、と言えるのかもしれない。
さわきこうたろう/1947年東京都生まれ。『テロルの決算』で大宅壮一ノンフィクション賞、『一瞬の夏』で新田次郎文学賞、『凍』で講談社ノンフィクション賞、『キャパの十字架』で司馬遼太郎賞を受賞。他著に『深夜特急』『春に散る』等がある。
かくはたゆうすけ/1976年北海道生まれ。著書に『空白の五マイル』『極夜行』等。近著に『裸の大地 第一部 狩りと漂泊』。
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