朝鮮日報が、長く険しい100年という歴史の記録を打ち立てた。死と復活を繰り返しつつ続いてきた足跡を振り返ると、あらためて感心なことだと感慨深い。日帝の弾圧で停刊4回、しかもついには息の根を止められた1940年8月の強制廃刊。6・25戦争では社長が北に拉致され、敵の統治下で発行が中断し、行商人のように釜山と水原へ流浪しつつ続いた新聞が、ついにこんにちの朝鮮日報、大韓民国最高の新聞になった。
草創期の経営は平坦ではなかった。経済団体「大正実業親睦会」が発行許可を受けたが、5カ月後の8月に決別を宣言し、独自案を模索した。不安定な経営状況にもかかわらず記者の抗日意識は透徹しており、3日に1度の差し押さえに加え、民間紙発足後初の停刊に遭った。停刊が解けた3日後にまた無期停刊という、言論機関にとって類例のない試練が重なった。1924年9月、独立運動家の申錫雨(シン・ソクウ)が経営権を手に入れ、民族指導者の李商在(イ・サンジェ)を社長に推戴して「朝鮮民族の新聞」を旗印とし、革新を断行して民族陣営の新聞として生まれ変わった。思想運動の溶鉱炉であって、民族主義、社会主義、無政府主義といった「過激思想」を併せ持つ人物が集結し、独立を模索する討論の広場となった。1927年の新幹会創立で民族運動の単一戦線を志向していた時期に、朝鮮日報は本部のような役割を遂行した。
総督府の朝鮮語抹殺政策が強度を増していった時期に、「知ることが力だ。学んでこそ生きる」というスローガンを掲げて展開した文字普及非識字者撲滅(1929-36)運動は、民族のアイデンティティーを守ろうとした実践的抗日運動だった。産業化期の1990年代のごみ減量や支流を生かす運動、「産業化は遅くなったが情報化は先駆けよう」という情報産業元年宣言も、日帝強占期の文字普及運動の精神を受け継ぐ言論キャンペーンだ。
朝鮮日報は人材の集結地だった。光復(日本の植民地支配からの解放)後は左右両翼へ、保守と進歩へ、政界と文化界・実業界へ進出し、ほかの道を歩んでいたさまざまな人物が朝鮮日報を経つつ活動した。文人にとっては生計を立てる仕事場にして、十分な紙面を提供する発表の舞台だった。金起林(キム・ギリム)、李源朝(イ・ウォンジョ)、白石(ペク・ソク)、韓雪野(ハン・ソルヤ)といった、北に渡った文人らも共にいたことがあり、洪命憙(ホン・ミョンヒ)は大河小説『林巨正』(1928.11.21-1939.7.4)の連載を続けた。3度の中断を経つつ11年にわたる大長征だった。
民族代表33人の一員にして、詩人として知られた万海・韓竜雲(ハン・ヨンウン)も、小説を連載した。『黒風』(1935-36、241回)と『薄命』(1938-39、223回)だ。朴鍾和(パク・チョンファ)の『世宗大王』(1960-77、2456回)は実に17年の超長期連載だった。70年代の人気小説『星たちの故郷』(崔仁浩〈チェ・インホ〉、1972-73、314回)も、朝鮮日報の紙面を飾った作品だ。
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