「誰が夜の中にイメージをもたらしたのか。夢だ」(パスカル・キニャール『秘められた生』)
夜は顔すらもない不在の試練だ。私たちは光に魅惑された者、光に飼い慣らされた者、光の奴隷だ。夜に会えば、初めは世界が漆黒のように感じられるが、そうするうちに徐々に見ることができるものが生じる。夜を経験しないようにするなら、私達の目は残酷に明るい対象にだけ注がれて、目が見えなくなるかもしれない。パスカル・キニャールは、スタンダールが書いた話を例に挙げて、こう書いている。
「ザルツブルクの塩鉱山では、冬になれば葉が落ちたシラカバの枝を暗い廃鉱のくぼみの中に投げ入れる。2~3ヵ月後、それらを取り出せば、木の枝は輝く結晶体に覆われている。太さがホオジロの足ほどの最も小さな枝に眩しく輝く、動くようなダイヤモンドが無数についている。「卓越した芸術とはどのようなものか。表面が裂けて血を流し、くぼみに入る木の枝のような者の夜はどうか。夜が過ぎ、夜が明ければ、木の枝は宝石がついた木の枝の話で終わっている。
私たちの敵は、私たちに決して夜を勧めない。甘くて明るい魅惑の明かりだけを勧める。私は苦しくて困難な時期にどのようにしたら良いかについて、決してむやみに周囲に相談しない。人間は、ただ私たちを正しい道から外れるようにすることに賛成するのだから。おそらく世の中の母親だけが粘り強く私たちに夜を話し、物々しい夜を教えてくれるようだ。一編の詩を書くために詩人たちも、夜のような暗くて深い洞窟の内壁に手を差し入れる。夜に触れ、夜を経験する。すべての生命体は眠ることで夜から逃げようとするが、目を閉じても私たちはそこにある夜のイメージをいつも見ている。夢だ。
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