ロシアによるウクライナ侵攻によって最近、マスコミに「地政学的リスク」という言葉が頻繁に登場するようになった。地政学的リスクとは「特定地域が抱える政治的、軍事的、社会的な緊張の高まりが、地理的な位置関係によって、その地域や関連地域の経済、世界経済全体の先行きを不透明にしたり、特定の商品の価格を変動させたりするリスクを指す。例えば、紛争やテロによって石油関連価格が値上がりして業績が悪化したり、世界経済が停滞したりすることなどが挙げられる」(SMBC日興証券ホームページより)ということだ。地政学的リスクとは国境に関わるリスクと言えるだろう。(文 作家・江上 剛、敬称略)
◆見たくないもの
私たちは、このリスクを当然知っていた。しかし、グローバル化が進展することで国境の壁が低くなり、特に、経済的な結び付きが強くなれば、地政学的リスクは減退すると思っていた。
だから、私たち(少なくとも私)はこのリスクを見ないようにしていた。見たくないものは見えないのである。
しかし実際は、近年、このリスクが高まっていたのだ。
ロンドン大学の地政学研究者であるクラウス・ドッズ教授は「ここ15年の間に、国境は新たな重要性を帯びてきた。軍備拡張主義やテロ、気候変動、移民、さらに直近のパンデミックなどによって関心が再燃したためだ」(「新しい国境 新しい地政学」東洋経済新報社)と言う。
例えば、前米国大統領のトランプは、メキシコ国境に塀を築き、国境を越えようとする人たちを排斥した。
ロシア大統領のプーチンは、ウクライナ侵攻の前にクリミア半島を支配し、ジョージアに侵攻し、勝手に独立を承認した。
◆日本も真っただ中
日本も考えてみれば、地政学的リスク、すなわち国境紛争の真っただ中にいる。
北はロシアとの間の北方領土問題が未解決である。ロシアは不法占拠している北方領土を実効支配し、軍事拠点化し、日本や米国をにらんでいる。
韓国との間には竹島問題がある。この島も韓国が不法に実効支配しており、このため韓国との間に友好関係がなかなか築けない(他にも問題は山積しているが)。
中国との間には沖縄県尖閣諸島問題、そして台湾問題がある。尖閣諸島の領有権をめぐって日中両国の歩み寄りがないため、周辺海域では中国漁船などとのトラブルが続いている。
また、台湾は国際的には国と認められていない。中国は武力を持ってしても台湾を統一する気配を隠さない。
しかし、それを許すとアジアの秩序が崩壊するため、日本や米国は中国による台湾侵攻を食い止めねばならない。日本は台湾を国家承認していないが、自由主義を掲げる重要なパートナーだからだ。
もう一つ、何かとミサイルをぶっ放す独裁国家、北朝鮮がいる。日韓関係が円滑にいっていないため、北朝鮮リスクは、直接的に日本に向かっている危機感がある。
このように、日本は地政学的リスクのるつぼにいると言える。それなのに、今まで能天気に「まさか、そんなことにはならないだろう」と構えていたのだが、ロシアのウクライナ侵攻を目の当たりにして、覇権主義的な国家のリーダーが登場すると、一夜にして甘い夢が吹っ飛ぶことが分かってしまった。
◆チャーチルを喜ばせた電話
ヒトラーという覇権主義的国家リーダーと戦い抜いた人物が、英国首相だったチャーチルである。
チャーチルは著書「第二次世界大戦」(河出文庫、1~4巻)で、ヒトラーとの戦い、すなわち、第2次世界大戦について詳細に書いている。
同書の第3巻には、日本の真珠湾攻撃について書かれている。
なかなかドイツとの戦いに参戦しなかった米国大統領のルーズベルトは、日本が真珠湾攻撃をした結果、チャーチルに「いまや、われわれは同じ船に乗ったわけだ」と電話する。
この電話でチャーチルは戦争に勝ったと確信し「ヒトラーの運命は決まったのだ。ムッソリーニの運命も決まったのだ。日本人についていうなら、彼らはこなごなに打ち砕かれるだろう」と喜びを爆発させる。
また第4巻には、原爆について「日本の運命が原子爆弾によって決定したと考えるなら、それは間違いであろう。日本の敗北は最初の原爆が投下される前に確定していたのであり、圧倒的な海軍力によってもたらされたものなのである」と書いている。
歴史に「if(もしも)」はないが、こうした記録を読むと、せめて原爆だけでも避けられなかったのかと、悔やむ思いは拭えないものがある。
◆登場時から非常に警戒
チャーチルは、ヒトラーについて登場時から非常に警戒していた。
第1次世界大戦で敗戦国となったドイツは、多額の賠償金を科せられたが「ベルサイユ条約の領土条項は、事実上ドイツをもとのままに残したのあった。ドイツは依然として、ヨーロッパにおける最大の同種民族ブロックとして残ったのである」(同書第1巻)。
これに対して、フランス軍元帥のフォッシュは「これは平和ではない。これはただ二十年間の休戦だ」と言った。これにチャーチルは「驚くべき正確さ」と言っている。チャーチルは、ドイツが復活し、再び脅威になることを予想していたのだ。
ヒトラーについては1章を設けている。ヒトラーは、第1次世界大戦後の貧しさの中で世の中に対して激しい怒りを抱き、やがてナチ党を率いて、軍部と結託し、ドイツのリーダーになっていく。
ヒトラーの著書「わが闘争」については「主要テーゼは簡単である。つまり、人間は闘う動物である。ゆえに闘う者の独立社会である国家は、戦闘単位である」とその内容を切り捨てているが、ちゃんと敵を知るためにヒトラーの著作を読んでいるのがすごい。
実際、ヒトラーは「わが闘争」(角川文庫、上・下巻)で「国境は人間によって作られ、そして人間によって変えられる」と言い「将来われわれに土地、したがってわが民族の生活を割り当ててくれるのは民族に対する恩寵(おんちょう)ではなく、無敵な剣の力だけなのである」と武力で勝ち取ると宣言しているのだ。
チャーチルは「いまだに無意識でいる世界に突如として現れた、新たな恐るべき事実を提供するだけである。すなわち、『ヒトラー治下のドイツ、そして武装しつつあるドイツ』、これである」と、ドイツに対する危機を喚起する。
◆口を開けて眺めるだけ
ところが、英国のボールドウィン内閣は軍備縮小に走り、ドイツの脅威を無視していた。また、フランスは国内が安定せず、ヒトラーに対抗するどころではなく、最も頼りにしている米国も「国内の諸問題、自由共同体の無数の利害関係、活動、偶発事故などに気を奪われていたアメリカは、ヨーロッパに起こりつつある大きな変化を、ただ口を開けて眺めるだけで、他国のことは関係がないと考えていた」状態だった。
ヒトラーに対抗すべき欧米各国は、全くまとまっていなかったのだ。ヒトラーはこうした状況を見て「大胆になった」のである。
ヒトラーは軍備を拡張し、徴兵制を敷いた。英国はそれを容認した。「第二次世界大戦はほとんど必至」の情勢なのだ。
しかし、民主主義国は「独裁国家よりもはるかに強い力があった」はずだが、「臆病風に妨げられ、もはや武備を整えた強い決意の邪悪の敵ではない」と、ヒトラーに対して立ち上がろうとしない。チャーチルは「破滅だけが寄せて来る」と嘆く。
ヒトラーは、ロカルノ条約で非武装地帯となっていたラインラントに進駐する。ドイツ国民の解放という理屈でフランス、英国との間で結ばれた条約を破ったのである。
ところが、フランスや英国はヒトラーの行動を容認してしまった。両国が協力して条約違反を許さない、とヒトラーを徹底的に攻撃するという選択をしなかった。それぞれ思惑があり、お互いの出方を見るばかりだった。
◆この時たたいていれば
このヒトラーのラインラント進駐に対して、チャーチルは「もしフランス政府が、ほぼ百個師団の陸軍と、当時まだヨーロッパでは最強だと誤信されていた空軍を動員していたならば、ヒトラーが自分の参謀本部によってラインラント撤退を余儀なくされていたことは疑いを入れない」と言う。
もし、この時にヒトラーをたたいていれば、その後の彼の暴虐な行動を抑えられただろうというのだ。
実際、ラインラント進駐に際し、ヒトラーとドイツ軍最高司令部との間で意見の衝突が起きていた。ところが、ヒトラーは成功し、ドイツの領土をいとも簡単に元に復活させてしまったのだ。
そのため、ヒトラーは自信を持ち、軍最高司令部の将軍たちもヒトラーに反対することができなくなり、以後は平伏し、従うことになってしまったのである。
ヒトラーは世界に向かって「全ドイツの領土的大望は、いまや達せられた」と宣言する。この成功が、ヒトラーを第2次世界大戦へと突き進ませるのである。
危機感を強めたチャーチルは、今まで以上に弱腰の英国の政治家や国民を鼓舞し、断固としてヒトラーに立ち向かうのである。
チャーチルの盟友である外交官ラルフ・ウィグラムは、妻への手紙にチャーチルのことを「彼は強い。彼は最後までがんばりつづけるだろう」と書いている。
◆今度は絶対に失敗できない
今回のロシアのウクライナ侵攻は、ヒトラーの動きと似ている。ソ連崩壊という国家崩壊に怒りを抱いていたプーチンは、欧米各国を油断させ(日本も油断していた?)、その間、着々と国内の支配を固め、軍備を強化した。
そして、失われた領土は武力で取り戻す、国境は人間が変えられるとのヒトラー的考えで、クリミア半島やジョージアに侵攻した。
この侵攻に対して、欧米各国から激しい抵抗を受けるのではないかと予想していた。ところが予想に反して、欧米は弱腰で、大きな抵抗はなかった。各国の思惑が違っていたのだ。ヒトラーのラインラント進駐と同じである。
これにプーチンは味を占めたのではないか。そして満を持して、ウクライナに侵攻したのだろう。欧米各国は、大した抵抗ができるはずがないと見くびったのだ。
今回、欧米各国が結束してプーチンに対抗しているのは、ヒトラーの暴虐を許してしまい、世界を破滅に導いてしまったという、失敗の歴史に学んでいるのではないかと思われる。
ウクライナがロシアの支配下に入ることは、ヒトラーが欧州を破滅に追い込んだ二の舞いになるとの危機感があるのだろう。今度は絶対に失敗しないという強い決意が、欧米各国を結束させているのに違いない。
残念ながら、第2次世界大戦で日本はヒトラーのドイツと同盟を結んでしまった。チャーチルも「第二次世界大戦」の中でドイツと日本を同一視している。
日本も今度こそは、間違いを犯すわけにはいかない。欧米と協調して、プーチンの暴虐を阻止しなければならない。欧米と同じように失敗の歴史に学ばねばならない。
◆独裁国家は必ず衰退する
チャーチルから学ぶのは、ヒトラーのような独裁的、覇権主義的リーダーが登場した場合、その登場の時点から最悪の事態を予想し、危機感を抱くこと、そしてその行動に対しては各国の利害、思惑を超えて徹底して対抗しなければならないことだ。
そのためには自由主義、民主主義国家は強く結束しなければならない。
今回、国連安全保障理事会はロシアの拒否権発動で、十分な機能を発揮していない。それでも国連総会において、141もの国々がロシアへの非難決議に賛成したことは、期待が持てるのではないか。
ヒトラーの暴挙に対し、国際連盟は機能せず、第2次世界大戦に突入してしまった。国連は、この歴史の愚を繰り返してはならない。独裁的、覇権主義国家の暴挙を防ぐために国連の改革が必要になるだろう。
現状、国連があまり役に立たないため、欧米と日本などの自由主義、民主主義国家は堅固な意思でヒトラーと戦ったチャーチルに学び、一致協力してプーチンに対抗しなければならない。
米国、英国の経済学者のダロン・アセモグルとジェイムズ・A・ロビンソンは、古今東西の国家の繁栄と衰退について「国家はなぜ衰退するのか─権力・繁栄・貧困の起源」(ハヤカワ・ノンフィクション文庫、上・下巻)において、その原因を「国家が経済的に衰退する原因は、収奪制度にある」と指摘している。
すなわち、国家の一部エリートが富や権力を独占しているような独裁国家は、必ず衰退するというのだ。プーチンが独裁的権力を握るロシアがそれに当たるだろう。
プーチンがこの事実に気が付かないのであれば、ロシア国民が気付かせてやらねばならない。そうでなければ、ロシアは必ず衰退するだろう。
ロシア以外にも、世界には多くの独裁的国家がある。その国々のリーダーたちも、自分の行動が国家を衰退に導いているのだと自覚すべきだ。
◆大国は小国に勝てない
さて、米国の戦略家エドワード・ルトワックは「ラストエンペラー習近平」(文春新書)の中で「戦略のパラドックスのひとつに『大国は小国に勝てない』というものがある」と言う。
ルトワックは、ロシアと同様の独裁的、覇権主義的国家である中国が台湾を威圧ばかりしていると、台湾に味方する国が増え、結果として、中国は台湾併合という目的を達成することはできないと言っている。
中国国家主席の習近平に諭すなら、中国の聖人老子の「大国は下流なり」という言葉がふさわしいかもしれない。ルトワックと同じ意味のことを言っているのだ。すなわち老子は、大国は謙虚にへりくだらなければならないと言っているのだ。
習近平は、自国の思想を学ぶべきではないだろうか。
ロシアにも「イワンのばか」という民話がある。プーチンも知っているだろう。
この民話は、正直で真面目に働いて暮らせば幸せになると教えてくれている。悪魔の誘惑に負け、武力や金を得ても、少しも幸せにはならないのだ。
イワンに象徴される正直で真面目な暮らしが、ロシア人の本当の価値観なのであり、求めるものだろう。ウクライナを略奪し、そこに住む人々を殺すことでは断じてない。
プーチンは早くそのことに気付き、ウクライナから軍を撤退させるべきである。これはロシア人も含む世界の人々の望みである。
(時事通信社「金融財政ビジネス」より)
【筆者紹介】
江上 剛(えがみ・ごう) 早大政経学部卒、1977年旧第一勧業銀行(現みずほ銀行)に入行。総会屋事件の際、広報部次長として混乱収拾に尽力。その後「非情銀行」で作家デビュー。近作に「創世(はじまり)の日」(朝日新聞出版)など。兵庫県出身。
からの記事と詳細 ( ヒトラーと戦い抜いたチャーチル、今こそ彼に学ぶ時だと思う【江上剛コラム】 - 時事通信ニュース )
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