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Friday, March 25, 2022

【書評】それでも理想は語らなければならない 曽田長人『スパルタを夢見た第三帝国』評|辻田真佐憲 - ゲンロンα

 もっとも、すべての人文主義者がナチに近づいたわけではない。ロストック大学員外教授のクルト・フォン・フリッツは、「総統への忠誠宣誓」を「真理の教授が妨げられない限りにおいて」という条件付きで行おうとして、1935年に罷免された。その背景には、フリッツが実証主義者であり、主流の「第三の人文主義」に批判的だったことと関係しているという。

 曽田はここに、ドイツ人文主義の二側面、すなわち「規範の立ち上げ」と「歴史学的-実証的な研究」の分裂を見る。

新人文主義者ヴォルフのプログラムに孕まれていた、一方で古代ギリシア(・ローマ)の規範の立ち上げ、他方で歴史学的・実証的な研究という両面から、「第三の人文主義」は前者、フリッツは後者を発展的に継承した。したがって二〇世紀のドイツの人文主義はナチズムとの関わりを経て、ある意味で独立した思想としての弱さ、折衷的な性格を露呈したと言えるのではないか。(239ページ)

 ただし、「実証」が「規範」に優越すると単純に結論づけることはできない。「忠誠宣誓」拒否で罷免されたドイツの大学教員は、たったふたりにすぎなかった(しかももうひとりはスイス人)のだから。

 むしろ評者は、「実証」と「規範」の相克に注目したい。大きな目標があるからこそ、新しい分野が立ち上がる。しかし、研究が進むとテーマの細分化が起こり、当初の目標も見失われる。すると、こんどは研究自体の存在意義が問われるので、また大きな目標を志向する――。

 いいかえれば、「大きな見取り図」と「精密化」との相克。これは、ドイツ人文主義のみならず、広く見られる現象ではないか。「規範」なき「実証」は自己否定であり、根無し草とならざるをえず、果てしない細分化のはてに権威主義に走り、世の中から役立たずの烙印を押される。批判されるべきなのは、ナチズムへの協力なのであって、「規範」への志向ではないはずだ。

 ここで「歴史が生に奉仕する限りにおいてのみ、われわれは歴史に奉仕することを欲する」(『反時代的考察』、小倉志祥訳)と述べたニーチェを思い出さずにはおれない。

 あまり知られていないが、20世紀を目前にして亡くなったかれは、もともと優秀な古典文献学者だった。ところが訓詁学的な研究に飽き足らず、同時代の作曲家リヒャルト・ヴァーグナーのなかにギリシア精神の復活を見出す、大胆不敵な著作『悲劇の誕生』を発表。結果的にアカデミズムから放逐されてしまうものの、在野の哲学者として歴史に偉大な名前を残した。

 ようするに「規範」派は、イェーガーやハルダーだけではなく、ニーチェもまた生んだのである。本書では彼にあまり触れられていないが、評者はここに希望を見出す。

 いかに実証が讃えられようとも、「それだけでいいのか」という声はけっしてなくならない。ドイツ人文主義より影響を受け、独自の教養主義を育んだ日本でも、それが当てはまる。大きな全体像を語る「知の巨人」は、いかに大雑把で素人語りと批判されようと、求められないではおれない。逆に、「規範」なき「実証」に予算とポストが際限なく供給される(ツイッターに蝟集する人文学者がしばしば夢想するような)未来は、永遠に到来しないだろう。

「規範」と「実証」はめぐる。であるならば、「規範」への志向をいかに適切に位置づけるのかを考えるべきではないだろうか。本邦でそれはおもに、総合知(大きな見取り図)を担う評論家の役割だったが、専門知を担う専門家も参与しても構わない。いやむしろ、世の中から役立たずの烙印を押されつつある人文学こそ、「実証」に自閉せず、積極的に参与するべきだ。

 理想は語り続けなければならない。いわば不適切に「規範」を求めてしまった「第三の人文主義」の試みは、それゆえ、けっして時代の徒花とのみ切って捨てることはできないのである。

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