長野県北部、中野市の山寺の境内にひっそりたたずむ石碑がある。前住職の萩原宣章(のぶあき)さん(77)が20年ほど前に建てたものだ。そこには、寺がたどった歴史への思いが刻まれている。
標高1351メートルの高社山(こうしゃさん)のふもとにある谷厳寺(こくごんじ)。境内にある駐車場の隅に高さ約2メートル、幅約90センチの御影石が立つ。刻まれているのは、「戦争の放棄」という言葉と共に憲法9条の全文、平和を象徴するハトの絵だ。
戦時中の1944年6月、政府は学童疎開を進め、少なくとも全国13都市の児童40万人が学校単位で疎開。長野県には温泉地などを中心に3万人近い子どもがやってきたとされる。
谷厳寺にも東京都足立区の国民学校から女児約40人が来た。萩原さんが祖父から聞いた話によると、女児らは地元の学校に通いながら、勤労奉仕で家畜のえさになる草集めなどをした。鐘や火鉢、米を供出した寺で子どもたちが口に出来たのは芋。夕方になると、山門の石段に座って親元の東京の方角をじっと眺めていたという。
女児らが東京に戻ったのは終戦直後。それから約50年後、中野市で疎開体験者を招いた催しがあった際、谷厳寺を当時の女児ら10人ほどが訪れた。寝泊まりに使っていた衆寮などを見て回った。境内で風呂釜に入ったことを思い出し、「今じゃ考えられないよ」と話す人もいた。
外で裸になる恥ずかしさも、親に会えないさみしさも、空腹によるひもじさも、子どもが口にできない時代があったのだ――。萩原さんは思った。
97年、「疎開児童の碑」を本堂の横に建てた。「子どもが本音をかくして生きる時代を二度とつくらないため(中略)疎開者名を深く刻み、永劫の平和を希求し、ここに絆の碑を建立する」と刻んだ。彼女らが故郷を眺めた山門や芋の絵とともに。裏には確認がとれた29人の名前を入れた。
女性たちとはしばらく交流が…
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