
戦後の日本が経験した最大の厄災ともいえる、東日本大震災と福島第一原発事故から10年が過ぎた。しかし、3・11を契機に大きく変わるかと思われた日本社会は、その後、ズルズルと後退を続けながら分断を深め、今また新型コロナの流行という新たな厄災のなかで、迷走と混乱を繰り返しているように見える。 なぜ日本社会は過去の悲劇や失敗から学び、変わることができないのか? 3・11からコロナ禍に至る、この10年の日本の歩みをさまざまな角度で検証しながら、その答えを探るのが白井聡氏の新刊『主権者のいない国』(講談社)だ。 * * * ――2013年に発売されベストセラーとなった白井さんの『永続敗戦論』は、3・11をきっかけに書かれた一冊でした。これまでの日本の歩みをどんなふうに感じていますか? 白井 福島の原発事故と、それから今のコロナ禍に至る約10年のなかでハッキリと露呈したのは「近代日本のフェイク性」です。より具体的に言えば、日本社会が大切にしてこなかった国民の「主体性」の欠如です。 ――主体性の欠如とは? 白井 本書の冒頭にも書きましたが、福島第一原発の事故で4号機の燃料プールが空になり、核燃料がむき出しになって「東日本壊滅」という最悪の事態に至らなかったのは、当時、燃料プールに隣接する「原子炉ウェル」に、工事のため一時的に張ってあった水が偶然、燃料プールに流れ込んだという幸運があったからでした。 ひとつ間違えば、「日本が終わる」といった事態もありえたわけで、その認識があれば「なぜこんなことが起きたのか?」と考えるのが当然でしょう。 ――実際、そう考えた人は少なくなかったと思います。
白井 ところが原発事故後も、原発をめぐる議論は「曖昧(あいまい)」なままですし、その後の10年間の大半を占めた安倍政権の時代も、戦後日本の劣化を象徴するような政治やモラルの問題が起きても、多くの人は一時的に批判的になるだけで、結局、選挙になれば、与党が勝ち続けてきました。 安倍政権の末期や今のコロナ禍での菅政権に対する批判を見れば、この10年で国民の政府に対する「不信や不満」は間違いなく高まっています。 では、なぜそうした不満や怒りが「こんな政治は自分たちで変えよう」という動きにつながらず、その時々の目の前の出来事への「反応」や「気分」だけで終わってしまうのか? それは憲法の上ではこの国の「主権者」であるはずの国民に、「この国の今と未来を決めるのは、ほかならぬ自分たちなのだ」という主体性が決定的に欠けているからで、それがこの本のタイトルである「主権者のいない国」に込めた思いです。 ――なぜ日本人には、主体性が欠けているのでしょう? 白井 明治維新以降、日本は西欧列強に追いつこうと「促成栽培」で近代化を進めました。そのとき、国家としての求心力を保つために利用されたのが「日本という国は天皇を中心としたひとつの家族である」という一種のフィクションです。 それはある面で近代化の成功を支えたわけですが、一方で本来、西洋的な「近代」を支える重要な要素だった人間の「自由」や「主体性」が軽視され、戦前、戦中は天皇を頂点に、戦後はその天皇に代わって事実上「アメリカ」を頂点とした従属を続けたことで、戦後憲法の下でこの国の主権者となったはずの日本人から「主体性」を奪い続けてきたのだと思います。 戦後に関してさらに言えば、経済成長が続き、米ソ冷戦下でアメリカに隷属(れいぞく)していれば済んだ時代なら、まだなんとかなったかもしれませんが、大きな時代の変化や、深刻な危機に直面すると、主体的に考える力のない国の「フェイクな近代性」が露呈してしまう。 政府の新型コロナ対応を「もはや先進国とはいえないレベル」だと感じてしまうのも、そのためです。 ――一方で、反原発運動や安保法制、森友・加計(かけ)への抗議や沖縄の基地問題などで政治に関心を持ち、抗議の声を上げる人も以前より増えている気がします。それでも現実は何も変わっていません。ならば「主体性」など発揮しても無駄なのでは?
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